福本早穂の教育心理カウンセリングオフィス、子どもと家庭の相談室こころのそえぎ 京都市山科

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こころのそえぎ日記(ブログ)

2009年

それは私です。

夢分析を勉強してから、子ども達の夢を聞くことが多くなった。

昨日、上の娘が見た夢

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どこかの南の島、(たぶん奄美大島だと思う)

小さなスーパーで、レジうちのお姉さんになっている。

お客さんが、買い物かごをもってきて、

レジを打とうとするのだけど、

値段が書いてない。

横にスーパーの経営者らしいおじさんが立っていて、

おじさんに

「これいくらですか?」と聞くと、

「う???んとっ、100円!」という。

100円と打っていたら、お客さんが「ここにバーコードがありますよ」と言ってくれる。

バーコードを読み取らせると、「399円」と出た。

おじさんは、なにくわぬ顔をしている。

また次のお客さんがきて、やっぱり値段がわからない。

おじさんに聞くと、

「う???んとっ、1000円!」

またまたバーコードを見つけて、読み取らせると、

「480円」だった。

おじさんは、当たり前みたいな顔して、

そこにいる。

こんなエエ加減なスーパーでいいのかな?

と不安になったところで目が覚めた。

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このおじさん、すごーく親近感を覚える。

きっとこの人、私が姿をかえて娘の夢に出てきたのだと思う。

このいいかげんさ!!

いやでも本人がしっかりせずばなるまい・・・・。

盛況でした〜!!

高垣忠一郎さん講演会「競争社会の忘れもの?自分を愛する心を忘れていませんか?」

開催日2週間前には、20数名の予約しかなく、青ざめていた私。

それまでに、4000枚以上のちらしを協力先にお願いしたり、配布したり、

当日清算のチケットも500枚は発送していました。

それなのになぜ・・・?

と天を仰ぎたい気持ちでした。 (さらに…)

♪あんだんて♪6周年記念イベント 高垣忠一郎さん講演会「競争社会の忘れもの~自分を愛する心を忘れていませんか?」

♪あんだんて♪6周年記念イベント

高垣忠一郎さん講演会

「競争社会の忘れもの?自分を愛する心を忘れていませんか?」

いよいよ明日に迫ってきました。

昨日で80名超の方がご予約くださいました。

ながらくご無沙汰している方、ご遠方の方にも声をかけたので、

お越しいただけなくても

連絡を喜んでくれて、楽しい数日でした。

入場料(会員・予約1000円・当日1200円)が高いからと、(私はそうは思わないけど)

高垣先生が気にかけてくださり、

レジュメだけでも10ページの力作!添付の資料が6ページも。

これだけの内容だと、それだけで本1冊分はありそう。

(これは、「お土産」で講演はまた別なんだそうです。)

一足先に読ませていただいて、感動して胸が熱くなりました。

お越しくださったら、読んでいただけます。

どうぞ来て下さいね。

(結局これが言いたかった・・・)

10月4日高垣忠一郎さんの講演会

「自己肯定感ってなんやろ?」の著者、高垣忠一郎さんの講演会を開催します。

 70年代から不登校の子どもと親に寄り添い、支えて来られた高垣先生の話は、

効率優先の社会が置き去りにしてきた大切なものに光をあて、

もう一度ふりかえってそれぞれの手に掬いとってみようと、

語りかけているようです。

秋の午後、「これからをどう生きる?」を考えるきっかけづくりに来てください。

そして、元気をいっぱいもらって帰ってほしいです。

10月4日(日)午後1時会場 ・午後1時30分?4時

ひとまち交流館2F・大会議室

(京都市河原町5条下がる)

オープニングに若者2人のユニット「Electric Sfa」のオリジナル曲によるLIVEも愉しみです。

今日で10日前ですが、予約がまだ30名弱。

250席もあるホールなので、あ、あまりにさびしー。

当日受付で一気に来られるのかしらん?

不安でいっぱいのさほさんです。

きっと「来てよかった!」と言っていただけると思います。

ぜひぜひお越しください。

ユングとカンサンジュンさんと石原吉郎

近頃ご縁があって、著書に触れた人たち

ユングは、河合隼雄さんとかその教え子の人の著書など読んでいたけれど、

8月にユングの講座をやろうと思いたってから、

そういえばユング自身の著作を(もちろん翻訳だけれど)読んだことなかったな、と気がついた。

「ユング自叙伝」をはじめ「自我と無意識(の関係)」その他・・

 読んでみたら、すごく分かりやすい。

そりゃそうだ。

人づてに聞くより、本人に直接聞いたほうが本当に言いたいことがよくわかるものですよね。

その後、カンサンジュンさんのアエラ特集を友人が貸してくれて、(なんと、サインもらってる!)

読んでると「あなたの生き方でいいんですよ」って

肯定してもらえてる感じがして、何度も涙がでた。

石原吉郎の詩も久しぶりに触れた。

「シベリア抑留とはなんだったのか?ー詩人石原吉郎のみちのりー」畑谷史代さんという若い世代の記者が書いている

この本も最近紹介してくださった方がいて、読んでみた。

カンサンジュンさんが、ウェーバーと夏目漱石の対比をドイツと日本の近代化の中で論じていらっしゃるので、

その社会の行き着く先のどうしようもない破綻の先に、

石原吉郎がいるのが見えてくる。

その後高度成長期を経験し、バブルがはじけ、

もう後戻りできない崩壊の予感の時代に

私たちはいるのかもしれない。

真っ只中にいると、わからないものね。

この社会のどこにどう自分の存在の意味を見出したらよいかわからなくなっている人たちがいて、

でも、今の社会が置き去りにしてきた何かを

痛みを伴いながら温めているような気がする。

ユングの経験した内界の戦いを

この人たちは闘っているのかもしれない。

ユングは、ペルソナを自己と社会との妥協の産物のように言っていた。

石原吉郎は、死地から生還した目の前に、

あの戦争の意味を問う暇もないような日常があらわれたんだろう。

妥協しようにも集合意識からはみ出してしまった自分を、

ペルソナを形成することができずに苦しかっただろう、宙に浮いていたのは。

自分の存在を真に承認してくれる人が皆無だったことに絶望したんだろう。

とてつもなく悔しかったんだろうな。

どこに向けていいかわからない不条理を感じていたのだろうな。

これはなんだかひきこもりの人の苦悩に似ている。

こんな時代には

自分の素朴な感性、感覚を大事にしてくしかないなと思う。

ねばならない、ではなくて、どうしたいか、なにを愉しい、しあわせと感じるか。

そして、人の感性、感覚も自分と同じように大事なのだと理解すること。

私は、子ども達が愛しいし、うちのおっちゃんが好き。

(腹立つこともあるけどー)

と言える事が、稀有なことなのだと

カンさんの本から知ったのです。

ありがとう、カンさん。

1年が過ぎた

今日は、父親の1周忌の法要があった。

あの日も、頭がくらくらするほど暑い日だった。

療養型病院に転院し、いつ行っても昏々と眠る顔をみるだけの見舞いだった。

病院が遠方になったこともあって、だれも行けなくなり、私ひとりときどき行っていたけれど、

時間を捻出しながら、しょっちゅう行けないのを心のどこかで言い訳しながら。

「父さん、私は今、あるご家族が危機に直面している真っ最中にいるの。

手がちぎれそうに痛いけど、この手を離すわけにいかないんよ。」

現実認識ができなくなった本人に代わって、病状の変化があるたびに

家族が延命治療の希望を尋ねられる。

何が一番本人にとってよいのか、

この判断が、本人の意向に沿わないかもしれない。

この決定が、命を縮めるかもしれない。

人の生死の決断を自分ひとりの肩に背負わされるのが、

とても理不尽な思いがして、かなしくて苦しかった。

ある日、自分の判断の迷いをヨガの先生に問うてみた。

「さまざまな枝葉を取り払ったとき、

あなたの真我が見えてきます。

一番よいと思うことをすればいいのですよ」

私の周囲には、豊かな知恵や思いやりを持っている人がたくさんいて、

助けてくださる。

ぱたんと戸を閉めるように父は逝った。

まだイビキが聴こえてきそうな顔だった。

この一年、小さい頃からの自分の課題が次々にあらわれて

近年にない落ち込み方だった。

あー、ほんとしんどかったな。

で、何が分かったかというと

「私は私であっていい」

ただそれだけのことがうれしい。

16…祖父母と親の世代間の葛藤2

不登校15のつづきです。

 同居している祖父母から毎日子どもが登校刺激を受けて、身体症状がひどくなっていくのを見かねて、父親が「俺達の子どもだから、自分達で責任持ってみていくから何にも言わないで、今までどおりに接してほしい」と自分の親を説得されたという家庭がありました。このときここで、はっきり家の中の世代交代が行われたという画期的な意味があると思います。祖父母と父親とのそれまでの関係が、子どもの不登校によって、顕在化することも多いのです。

「学校」や「学歴」に対する価値観、もっと言えば生き方、人生に対する姿勢が問われるときに、親も自分の親(祖父母)からいかに精神的に自立しているか問われます。

自分自身が無意識に、親から認められたい思いが強いほど、子どもの不登校によって生じる親との軋轢が耐え難いものになります。

一概には言えませんが、子どもの不登校を媒介にして生じる祖父母と母親との間の葛藤から身を引いて、あたらずさわらずにしている父親が多いように思います。一人ひとり、仕事量も労働時間もちがうので、そうした父親の姿勢を責められないとは思いますが、言葉や態度の端ばしに、気にかけてくれているな、なるべく母親の話を聞こうとしているな、という感じがわかると、お母さんは支えられるようです。

でも、祖父母にとって孫がかわいいのは不登校になっても変わりはなく、親にはきついことを言っていても、孫が遊びに来ると美味しいものを食べさせて、お小遣いをあげたり、どこかへ連れていったりしてくれる人がほとんどです。

なかには粋なおばあちゃんもいて、孫が来ると花札を出してきて、「一緒に遊ぼう」と誘ったりするそうです。

親との葛藤で疲れた子どもが、田舎のおじいちゃんおばあちゃんに受け入れてもらって、学校のことは何にも言わずに普通に接してもらって、ほっとできた、という話は何人もききました。映画にもなった「西の魔女が死んだ」という話は、実際あるだろうなと思います。(学校復帰が、あまりにスムーズに行っているところは、現実とはちがうなと感じますが。)

 こういう祖父母の受け入れる態度、姿勢は傷ついた子どもにとって、自分の存在を絶対的に肯定してくれる人がいるというきわめて貴重な経験になります。

 本当は、親に受け入れてもらうことが一番必要なのだと思いますが、子どもの将来に直接責任と負担がかかってくる親の世代は、存在レベルで絶対肯定する(子どもの誕生のときに「生きてくれているだけでいい」と思った経験をした親は多いのではないでしょうか?)というふうに受け入れるまでにはさまざまな葛藤と苦しみをのりこえなければなりません。

 親子でそんなふうにもつれたりほぐれたり、すったもんだして過ごした時間こそが、親を親たらしめるのだと思います。葛藤の時期に親子の絆が深まり、以後の親子関係の基盤を築いているのです。

 もう10年以上前のことですが、不登校のシンポジウムの会場で、あるお父さんが発言されました。「娘が不登校になってから長い間家にいて、その間に親子でいろいろあったけれど、男女の仲にもそのときだけの薄い関わりもあれば、愛情で結ばれた深い関係もあるように、うちの親子は深い仲でやっていこうと思います」と。それを聞いて、会場のあちこちで拍手が起きました。

 

 つづく

あの日、たくさんの楽器が遺されて

 去年は暑いさ中8月に、地元京都で「不登校・登校拒否を考える全国のつどい」が開催された。

毎月の実行委員会のオープニングで唄ってくれるお父さんがいて、いつもテノールの澄んだ声に聞きほれていた。

ギターの伴奏だったり、アカペラだったり。

 それで最後の交流会で同じテーブルになったのをさいわい、恐る恐る「ピアノ伴奏させてください」と申し出てみた。

途端に、目をまるくして「ええーっ!」

さっそく、シューベルトの楽譜を下さって、12月にお手合わせ。

何十年ぶりだろう。

みずみずしい音と声。急に血が通ってくる感じ。

たのしーなあ、音楽って!

新年早々にご連絡有り。ある団体の研修集会で伴奏してくれませんか、って。

いやあ、うれしー!

4半世紀前、おっちゃんと逃げるようにして北海道へいき、着いたところが層雲峡に一番近い町。石炭小屋のような小さなあばら家に、中古のグランドピアノを置いた。(当時、友人が遊びに来て「ほんとに、この家の中にグランドがあるの?」って、笑いながら聞いたのでした。)その小屋に20人ほどの子どもたちがピアノを習いに来てくれた。保育士さんもいた。

そこから、2時間半かけて旭川の音楽教室にも教えに行っていた。

おっちゃん(夫)は、標高1800メートルの山のてっぺんが職場で、それでも年に1回ではなく、週に1回くらい帰ってくる彦星でした。

このあばら家で教えてた子どもさんが、長じて音大に行って奨学金で留学したという話も聞いた。私は手ほどきしただけなので、後の先生が良かったのだろう。でも、うれしいことですね。(そういえば、当時音大受験生もいて、私が引っ越したあとで「受かりました」って報告してくれた子も。)

人家はまばらな地域で、深夜に弾いても平気だった。

あの頃の生活を思い出すと、どこを見ても真っ白な風景が、はるかにはるかに見渡せて、さびしいなんて半端な気持ちじゃなく、自分が真っ白に消去されてしまいそうだった。

ピアノを弾くと、し?んと雪の中に吸い込まれるように混じりけの無い音が聞こえた。

今思い出しても、なつかしいを通り越して、胸がつまってくる。

でも、今ふりかえると、人口が1万人を切り、年々減少していく町のなかに、

ピアノを弾く子どもが少しでも増えたことを思うと、

ちょっと楽しくなる。

関西へ戻ってくるときに、ピアノを売ってしまい、楽譜だけが5、6箱残っていた。

(ピアノの代金が出産費用になったのだから、当時の経済状態は推して知るべし。)

子どもが生まれ、寝てるときは音をたてられないから弾けない。起きてるときは子どもの世話で忙しい。結局3人の子育てと家業の繁忙が一段落するまでに18年が夢中で過ぎ、だんだんあきらめも錆び付いて、もう一生あの頃のように弾くことなんてないと思っていた。

ところが、急に時間ができた。自由が訪れたとき、訳あって私は失意のどん底で、毎日放心してなにも手につかない状態。

そのころ丁度、ショパンコンクールがあり、2度の優勝者が出なかったあと、15年ぶりに、しかも19歳のリ・ユンディ君が優勝したというドラマティックなニュースがあった。

彼の清冽なピアノの音や自分の音楽に没頭して弾く演奏に魅せられて、つかえながら久しぶりに弾いたショパン。ひどいものだったけど、胸がふるえた。

こんな喜びがあるなんて!

やっぱり、生きてみるもんだと思った。

14年前の今日、震災で亡くなった人の家にもピアノがあったでしょう。

ピアノだけでなく、奏でる人をなくした楽器があちこちに。

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