福本早穂の教育心理カウンセリングオフィス、子どもと家庭の相談室こころのそえぎ 京都市山科

こころのそえぎ

子どもと家庭の相談室へようこそ

絵本の絵

第22回「あの路」 山本けんぞう・文/伊勢英子・絵 平凡社・発行

あの路

著者/訳者:山本 けんぞう いせ ひでこ

出版社:平凡社( 2009-09-09 )

定価:

Amazon価格:¥ 1,620

大型本 ( 35 ページ )

ISBN-10 : 4582834515

ISBN-13 : 9784582834512



 今まで自分をとりまいていたすべてがそこから入って来た窓をうしなったとき、闇に閉ざされた孤独感と絶望の淵にいるとき、人は何に支えられ生きていくのか?

 行ったことはないけれど、たぶんパリの路地裏だろう。光が射してくる奥のほうにその犬は立っている。

 「三本足」の黒い犬は、自由にその路をかけまわり、ごろごろ体をすりつけたり、だれにでもしっぽを振って近づいてみたりしている。

 昭和30年代、日本の小さな下町の商店街にもこんな野良犬がいたものだった。決して吠えたりしないで、何をされても逃げるだけ。人なつこくすり寄っていったり、ちいさい子どもの相手をしたり、ゴミ箱を漁っているときもあればだれかに食べ物をもらったり、遊んでもらっているときはうれしそうに走り回っていた。それが寄る辺なく力なきものの生きるすべだったのだろう。

 パリの「三本足」もしなやかにしたたかに自分の運命を受け入れて、生き延びている。

 母一人子一人だった「ぼく」がお母さんを亡くして、おばさんの家にひきとられた日も、「三本足」はしっぽを「ふりんふりん」していた。(このしっぽのふりかたが、なんとも味があっていい。せわしなく「ふりふり」されると、喜びいさんでとびかかられそうで警戒してしまうだろうな。)

 だけど、悲しみで胸をふさがれている「ぼく」は、いつも顔をあげずに「三本足」の前を通り過ぎていた。

 「みんな親切だった」けど、悲しみでいっぱいの心にはもっと何かが必要だったのだ。学校ではいつも沈んだ表情をして、うつろな目をしていたのだろう。帰り道、クラスの子たちに暴力をふるわれている場面がある。

 「ぼく」は、学校へ行かなくなった。母親の姿を無意識に探している子どもの目に「三本足」がしっぽを「ふりんふりん」しているのが見えた。

 三本足とぼくが初めておっかけっこする場面が、子どもと犬らしくてほほえましい。

 ここで初めてこの子は笑った。三本足も笑った。

「同じ笑いだった」って。夢中で走っていっしょに走って、わくわくしてわらったんだよね。

 冷たい路を「二人」はいつも走っていた。三本足も走っているときは自由だった。地面をけって宙に浮くとき、体も心も軽く飛んでいくようだったろう。

 疲れたらつめたい地面にころがって、くんづほぐれつ取っ組み合いのようにじゃれあって遊んだ。雪に反射して家々の窓がきらきら虹色にかがやき、二人を照らした。

 孤独な子どもと孤独な犬がお互いのぬくもりを求めあう気持ちが、この光景が美しいだけに一層切実に迫ってくる。

 「ぼく」は、「三本足」にいろんな物語を聞かせてあげた。きっとママが寝物語に聞かせてくれた数々なんだろう。「三本足」は、じっと耳を傾けて聴いてくれた。時にはあくびしながら。「ぼく」は、話に飽きたんだろうなと思いやれるくらい心がひろい。なにも言わずに、じっと傍にいてくれる存在は、孤独な人を一番なぐさめてくれる。

 でも、学校へ行かずにモップのようにごみとほこりだらけの犬と遊んでいるぼくは、身を寄せている家のいとこに疎まれている。おばさんは、「困ったねー」と言いながらもほうっておいてくれた。どうしてあげたらいいのかわからなかったのだろう。犬と遊んでいるぼくが、いきいきと楽しそうにしていることを喜んでいるふうでもないけど。とにかく放っておいてくれたおかげで思う存分「二人」の時間を過ごせて、少しずつ「ぼく」は元気になっていった。

 ある雪の降りしきる夜(街灯のあかりが点いているから夜だと思うけど)、ぼくは三本足を探して回った。三本足を呼ぶ声が雪の中に空しく吸い込まれていった。三本足はどこにもいなかった。急にぼくはこわくなった。

 どうして?三本足になにか起こったかもしれないという予感がしたから?

  探し続けて足も手も凍えてかじかんで、冷たさも感じなくなったころ、広場のゴミ箱の下に黒いモップのようにころがっている「それ」をみつけた。

 後ろ足をだれかにビニールひもできつく縛られていた。うっ屈した思いを自分より弱いものにぶつける輩がこの路にもいたのだろう。

 すっかり冷たくなって死んだように動かなくなった三本足を、「ぼく」はコートのなかに抱きかかえた。少年の体も自分が温めてほしいくらい冷え切っていたにちがいない。

 何度も名を呼ぶと、三本足はきらきらした目でぼくを見上げた。それは、ぼくが助けにくることを信じて疑わない目だった。待っていた人にやっと会えたという目だった。

 三本足の思いの通りにぼくは助けに来ることができた。

 自分自身が人を助けたとき、人は人を信じられるようになるのだろう。

 この場面は、少年のコートのなかに「三本足」は描かれていない。まるで祈りのように、膝立ちした少年のコートの中から光が立ち上っている。

 「だれも、ぼくたちを気にかけなかった。」

雪の中で「二人」だけが、命あるもののようだ。

三本足は元気になり、何事もなかったかのように以前と変わらず走り回っている。

 「ぼく」は、なにかが変わった。

 「なにか落っことしたみたいだった」

 何が変わったんだろう?

 少年は、いつのまにかママを探さなくなっていた。これを「成長」というのだろうか?

 一人きりで歩いていかなければならない自分をはっきりと自覚したら、もう前ほど無心に三本足と遊べなくなってしまったかもしれない。

 「ぼく」はおばさんの家を出ることになった。

 おばさんの買ってくれたスーツケースに入れるものは、ホンの少しだけれど、「ぼく」のかけがえのないママと「三本足」との思い出のつまった品ばかり。それが役に立たなくなった古いものばかりなので少年の境遇を表わしてせつない。

 別れの日、少年の乗った車を三本足が追いかけた。車のあとを追いかけてどんどん速く走ってくる。速くなるほどに自由になる。それを見ているぼくの心も自由になっていく。

 三本足は「あの路」の終わるところで立ち止まった。

 三本足は「ぼく」のいない「あの路」をまた「ひとり」で元気に走り回り、ごろごろ体をこすりつけ、知らない人にもしっぽを「ふりんふりん」しながら、しなやかにしたたかに生きていくだろう。

数年後、たったひとりでたくさんの人やできごとのなかを歩きつづけてきた若者は、心の中にいつも「あの路」と「三本足」を見ている。

だから「大丈夫さ」、これからも「ひとり」で「ぼく」は歩き続ける。 

コメント

コメントをお寄せください。

コメントの投稿

* コメントフィード

トラックバック

トラックバックURL: http://kokoronosoegi.net/2010/0802025613.html/trackback/

ページトップへ上矢印

Get Adobe Flash player