小さな哲学者
昨日、長年フリースクール、サポート校、個人塾を合わせたような学びの場を作っていらっしゃるK先生が久しぶりに訪問してくださった。
K先生が初めて不登校の子どもと出会ったのは、7,8年前だろうか。
その子がどんどん学力を自ら伸ばしていくのを目の当たりにして、不登校の子どもを受け入れ、先生の言によれば、「成長をお手伝いする」醍醐味を知って打ち込んで来られたそうだ。
学校へ行かなくなり、家でひとりでいるあいだに、ずいぶん「考えていた」という経験者は多い。
なにを考えているのか、ということよりも自分の頭で粘り強く、根気強く、考えつづけていた、という行為はすごいと思う。
以前、広木克行先生が講演のなかで「不登校の子どもたちは、小さな哲学者である」とおっしゃっていた。
目の前にだされた問題に期待される正しい答えをいかに早く見つけて答えるか、というのが今の学校的な勉強なのだけれど、「哲学」は、自分自身で問いを立てなくてはならない。「私という人間はどんな人なのか?」「私はなんのために生まれてきたのか?」「人はなんのために生きるのか?」「家族って、親子ってなんだろう?」・・・・・・
とりとめもなく、とめどもなく、一人で考え続けている姿は、深い悩みの谷間にいるようにも見える。
安心して悩める場と時間があれば、思索は深まっていく。
周囲に責めたり、焦ったり、不安な眼があると、安心して自分の内面に目を向けられない。
(だから、親は自分の焦りと不安で子どもを追いたてず、家の中でゆっくり考えられる環境にしてあげてくださいね。 学校の先生も、家にいるのがいけないことと思わないで、家で自分を見つめているのだと理解してあげてください。家庭訪問のときには、本人が話やすい話題や雰囲気で聴いてあげてほしいのです。まとまって話せなくても、言葉の端々にいろんな想いがあり、感じているとわかると思います。)
K先生がはじめて出会った件の少年は、定時制高校から大学へ進み、今年大学の卒業論文を見せてくれたそうだ。
私も題名だけ拝見しただけで、その若者の問いのたて方=テーマに感心してしまった。外からは、何年もひきこもって動かなくなっているように見えていたと思うが、そのあいだに何度も何度も自分に問いかけ、丹念に思索を積みあげてきたのだと思う。
ネットで検索すれば、ほしい情報がすぐに入手できる時代だけれど、自分自身の問いやテーマがなければ、かえって混乱してしまったり、活かすことができなかったりする。
もうすぐその卒論が送られてくるので、楽しみに待っている。
そして、今しんどい子どもたちの内面に、みんながそのような可能性をもっていて、いつか外からみえる形になって現れる、ということも何度か経験している。
いい学校やいい就職ができる、という形ではないのだけれど、もっと大切に思えることが立ち現われてくるのに、感動する。
2011年06月12日 12:22 AM | kokoronosoegi | コメント (0)
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