福本早穂の教育心理カウンセリングオフィス、子どもと家庭の相談室こころのそえぎ 京都市山科

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小さくされた人々

最近、「反貧困ネットワーク」の湯浅 誠さんのプログやツイッターを読む機会があり、

今やっている「子ども若者支援」のボランティア活動とのつながりを見出して、なるほどそういうことなのかと納得したのでした。

少し長いですが、読んでいただければ有難いです。

http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html

引用*鳩山元総理が「みんなに居場所と出番を」と表現した「社会的包摂(Social Inclusion)」は、19 90年代以降の社会の劇的な変容の中で重要性を増していますが、政府としての取組は始まったばかり です。社会的包摂は、個々の政策に意味付与する理念であり、ある一つの政策があれば社会的包摂、 なければ社会的包摂ではない、というものではありませんから、「何を」というのを個別政策として 具体的に名指すことはできません。イメージとしては、現状において社会参加・政治参加に支障のあ るさまざまな立場の人たちにとって(この状態を「社会的排除」と呼ぶ)、それが可能となるような 条件づくりを多方面(給付やサービス、まちづくりなど)で行い、社会自身がユニバーサル(普遍的 )かつ多様性のある状態に変容していくことを後押しする理念だと言えます。

 

「社会的包摂(Social Inclusion)」という概念、それに対する「社会的排除」という概念。初めて知ったのですが、高度成長期に形成された男性は生産の場(企業)で、女性はその男性を生産の場に送り出す再生産の場(家庭)で分業し、再生産の場は次なる分業の担い手を再生産する場でもある、という日本型モデルが日本の社会福祉政策を形成してきたのだというところが、よくわかりました。

 

引用2:社会的包摂理念は新自由主義と親和的な側面もあり、福祉国家論者の中には批判的な人も少 なくありません。その意味で、社会的包摂の理念や政策には、あらゆる社会構想と同じく、限界も課 題もあります。  ただ、男性正社員片働きモデルを固定化する日本型雇用と、高齢と障害のみを社会保障の対象とし て、子育て・教育・住宅については高い私費負担を前提にする日本型福祉社会とのセットが支配的で 、そこから排除された人々を自己責任論という名の社会的無責任論で片付けてきた日本社会において 、社会的包摂理念のもつ意義は大きいと考えています。これからの超少子高齢化・人口減少社会に対 応するためにこの理念をより強く打ち出し、より広く社会に浸透させる努力を積み重ねることは政府 の責務であり、私としてはそのことを現政権に要望しておきたいと思います。

 

「社会的包摂理念」の意味づけをしつつ、湯浅さんは日本型社会モデルが崩壊してきた状況を分かりやすくおっしゃっています。

 

引用3:しかし、このような「標準的なライフサイクル」に当てはまらない人たちは高度経済成長期から存 在し、その典型が母子家庭であり、日雇い労働者でした。この人たちは国・企業・男性正社員と重な る三つの傘の下にいなかったため、以前から「働いても不安定で貧困」なワーキングプア状態に追い 込まれていました。しかし90年代以降、国も企業も余裕なく傘を閉じていった結果として、家族の支 える力も弱っていき、傘の外で雨に濡れる個人・世帯が増えていきました。  典型的には、ホームレス状態にある人々、働きすぎでメンタルヘルスを害した労働者、就職氷河期 世代の未婚男女、親が高齢化していった障害者やひきこもりの人たち、リストラされた中高年男性と その家族、貧困家庭に育った子どもたち、家族に支えられなくなった低年金・無年金の高齢者、親の 介護や子育て負担から十分な就労機会を持たない人たち、廃業せざるを得なかった自営業者などです。

 

この話を聖書にくわしい友人に話したら、「傘の外に出されてしまった人を『小さくされた人』とイエスが言ってる」と言っていました。イエスは、「小さくされた人」を前にして心を揺さぶられ、なにか自分にできることをしたいと思ったんでしょうね。決して大それた「奇跡」を起こして、賞賛を得たいと思ったのではなかったでしょう。

不登校から元気になって進学や就職しても、傘の中と外に分かれてしまう社会があるかぎり、親としては子どもの将来に安心できないのです。

かといって、傘の外に排除されないよう、傘の内にいられるように子どもに叱咤激励して無理をさせるということもできません。それは、今の学校環境や就職活動の厳しい環境に合わない子どもや若者たちが、自分なりのよさを発揮できないでいて、でもそれぞれのやり方で精いっぱいがんばっていることを知っているからです。(「がんばる」と「無理する」は違う、って誰だかが言っていました。けだし、名言!)

「うちの子」が傘の内に入れたら、同じ不登校だった「あの子」は外に排除されるかもしれないし、逆の状況もじゅうぶん予想されます。

どちらにしても、同じように「不登校」で悩んできた親たちが、子どもの成長とともに、子どもが社会にどう入って行くか、受け入れられていくか、というところで、傘の下に入っても、排除されても、どちらの心も傷ついていき、分断されていく危険性があります。

9年間不登校ひきこもりの問題にかかわってきて、またわが子の不登校を経験してきて、自分の中にあるこのわだかまりはなんなのかと、もやもやとしていた気持ちがなんなのか、かなりわかったように思います。

「不登校」という学校社会から「社会的排除」された痛みを共有する子どもたちが、成人後に傘の内であれ外であれ、つながり協力し合って新しい社会モデル像(社会的包摂のできるモデル)をつくっていけたらな、というのが私の夢みたいな結論ですが、

さて、具体的にはどうしたらいいのか・・・・・?

お互いに既成の価値観にとらわれないで、ひとりひとりが「なくてはならない存在」として「小さくされること」なく「大きな存在」としていられる。・・・そんなイメージでしょうか?

*母の介護に体力と時間が必要な私も、最初から「小さくされている」女性なんですね。だからこういう問題に反応するのでしょう。

子育てと介護にもう少し社会的支援があったら、もっといろんなことができたし、できるなー、と思ってしまうけど、自分の家族が大事なので、後で後悔したくないので、できることはやってますー。って感じかな?

 

 

コメント

娘の不登校を経験して、でも、まだ、娘の卒業、中学校では、まだ十数人の不登校がいるという、娘の時は三学年あわせて、三十人ほどいたのだけど、なんだか、取り残されている感じがいなめないという。
私の友人で、息子さんが中学時代不登校だったのだけど、今は娘同じように大学に行きたいといっている。友達の息子さんは、農業体験をしながら風光明媚な学校で勉強できる高校に進んだ、親元を離れてである。
娘も魅力を感じつつ、親元が離れることに抵抗感があった娘は、今通っている学校にいきましたが、中学の情報が古く、進学校へと移行している学校へのとまどいもありました。が、それ一つにとっても、中学校の先生方は手を差し伸べたいと思いつつ、忙しく、また、私も絵本を通しての助けを申し出ましたが、これは、この時の校長先生の「絵本でなんて救えない」の一言でかき消されました。
本当にソフト面、不登校の子の気持ちがわかるように、人に対しての気持ちを砕く子どもたちを思いやりの気持ちを育てるということは大切だと思います。

今は娘は支援教室もいかず、ここまで成長してくれたことで、これでよかったと思いますが暗中模索の状態でした。

今、子育て支援センターにも月一度いっていますが、その中で何気ない会話で悩んでいることを話すだけでも親の心は軽くなっています。
そんな場所が不登校の親にもあればと思いますが、なかなか、「不登校を考える」という会はあっても気軽にいける場所がなくて、私はその友人やあんだんて、支援教室での相談会にきてくださる先生が私の気持ちによりそっていただいたこと。本当に恵まれていたと思っています。

この間、今月一度のお寺での法話会の前座で絵本を読んでいます。60代以上のかたが多いのですが、喜んでいただいています。
この間は絵本「じいじのさくら山」を読みました。
加えて、ひとりひとりの中にある桜の思いを、石山寺の「夢の桜」の話にからめて紹介はなしました。

2012年4月2日 10:26 AM | りこ

りこさんは、ご自分のお嬢さんの不登校でとても悩んでいらっしゃっただけに、子どものしんどさ、親のつらさが人一倍わかるのでしょうね。
先生方も、ちゃんとサポートしたいと思っていらしても、本当に忙しいのですよね。
学校に一人でいいから、教科も担任も持たないで子どもとかかわったり、先生同士、あるいはスクールカウンセラー、ソーシャルワーカーなどの専門家、保護者、などと連絡を取り合って、橋渡ししたり一緒に話し合う場を設けたり、外部機関との窓口になるなど、子どものために動けるキーパーソンがいるとずいぶん違うだろうなと思います。
「絵本でなんて救えない」なんて見識のなさだと思うのですが、たとえ申し出を受け入れたいと思われても、受け入れる窓口になる人が必要だけれど誰がやるのか?というところで行き詰ってしまうことも今の学校では多いでしょうね。悲しいことですが・・。

りこさんが、お寺で絵本の読み聞かせをしていらっしゃると知り、気持ちがほっこりしました。
いくら字が読めても人に読んでもらう楽しさは、また格別ですね。
絵本を通して人の心の真実を伝えていくのってすばらしいですね!

2012年4月3日 10:16 PM | kokoronosoegi

お寺の法話会で、父との距離はすこし縮まったような気がします。
娘が前向きになってくれたことで、少しは私のことも認めてくれたようです。いずれはどこにでも出ずにお寺を中心に生活し、子育て支援や読み聞かせ、お年寄りとのコミニュケーションまでしてほしいと思っているようですが、お寺に集まってもらうまでの種まきも大切だと思うので、それに、やはり疲れてしまうこともあります。

最初は読み聞かせなんてと思っていたようですが、読んでもらうことは本当に心地よいのでしょう。選書は、いろんな大人にも読んでほしいものの資料からと季節に関係するものを選んでいます。
それと、それにまつわるお話をして、十五分ほどです。

学校の先生方も、絵本、本の力を見直し、信じてを少しでも信じてほしいと思っています。

娘が力をもらった本のひとつに「温室デイズ」がありますが、ここには子どもによりそってくれる先生がでてきます。
娘の通っていた中学校にもそんな先生が突然娘が卒業間近の三学期くらいに採用されていらっしゃいましたが、その先生の学校での生かし方がうまくいっていないと思いました。

私の勤めている小学校に、発達障害、自閉症などをもって学校でいきにくさを抱えている子どもたちがいますが、その子どもたちはみんな本好きです。その子たちに心ゆくまですきな本を読ませてあげる時間があれば、この子たちの問題行動はすくなくなっていくんじゃないかなぁと考えることがありますが、なんせ、時間に縛られている感じがいなめません。

昔、松岡享子さんの講演会で、松岡享子さんがアメリカでスラム街の子どもたちがくる図書館に勤められたことがあったそうで、その時に本を読んであげること、ぎっとハグすること、ライブラリアン=カウンセラーと言われたことは印象に残っています。

今日は娘と、チキンサンデーという本を読みました。
イースターの祭りに帽子をかってあげたい孫が、人種差別で苦しんできた帽子屋さんと交流して、心を溶かしていく話です。
長女が高校に通っているころ、たまたま、同じ電車に乗り合わせて、私がチキンサンデーを読んでいて楽しそうだったようで、ニコニコしていたらしく、家にかえって「おかあさん絵本読んでニコニコしていたでしよう。友達に指摘されて恥ずかしかった。だけど何の本読んでいたの」といわれてその本を差し出したら、読んだ長女が、私と同じことをいったので、親子だなぁと思ったエピソードがあり、次女に何も言わずに今日読んでいたら、また長女と同じ事をいったので、なんだか心が温かくなって胸一杯になりました。ありがとうフォルカー先生の作者と同じ作者のポラッコの話です。この話もある先生のとの出会いが、この主人公の運命をかえたという話です。先生ばかりでなく、出会いを大切だと思います。ご縁っていうのは大切だと思います。

2012年4月4日 3:26 PM | りこ

りこさんは、絵本を通してとても豊かな人間関係を培っていらっしゃるのですね。
りこさんのコメントから、絵本のもつ力ってすごいなーって、あらためて感じています。

お寺に来られる方、自閉症など生きづらさをもっている子どもさんたち、大人から子どもまで絵本は人にとって大切な何かを感じさせる力があるんですね。
もっと学校で活用してくださったらいいのにね。先生も子どもたちもきっと感動があったり、お互いの気持ちを思いやったり、理解したり・・・いいことがいっぱい起きてくる気がします。

2012年4月5日 9:38 PM | kokoronosoegi

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